2018年6月27日水曜日

父の塩炊き時代

昭和二十八年八月十五日、太平洋戦争も終結し、外地で働いていた日本人は、いよいよ故郷へ引き揚げることになった。父は激戦地なった南洋から妻子のいる郷里、竹富島へ帰った。 島は引き揚げの人達で満杯の状態。農地もなく仕事も無く、生活は生死寸前の貧困のどん底であった。何かをしなければ生きてゆけない。でもどうにもならない最低の時期だった。
父は人に先がけ、いろいろなアイディアを見つけだすことがあった。そこで父のかんがえたことが塩炊きの仕事である。石垣島の裏手、伊野田(いのぅだ)に製塩所を建てることになった。当時塩が無くて困っていた事に目をつけたわけである。親戚知人賛同の人達を募って、小さな製塩所で食塩製造の仕事を始めた。
昭和二十二年の秋頃だった。塩炊きの仕事に参加した人は次のメンバーである。  
満州(中国の東北地方)帰りの前我名勉・台湾帰りの稲嶺成秀・台湾帰りの新本実・父の甥(おい)石垣晃・世那国秩。他にもまたいたかも知れないが、私の記憶にある人たちである。精製した塩を売って皆さんに配当したようだ。
伊野田の浜は大浜村白保から数キロ離れた所で、その先は耕作地がなく山林地帯につながっていた。東には太平洋が広がり、白浜と波打ち際の所から、リーフが続いている。潮が引くと二、三十メートルのリーフが現れる。その沖の方には珊瑚礁のリーフが数百メートル先まで続き大海の波がぶつかっている。ゆるい斜面の白浜をのぼりきり、奥へ五、六十メートル入ると、森林の中父達の働く塩炊き小屋があった。石垣島東側の裏海岸、遠く人里離れた辺ぴな所でマラリヤという風土病のあった地区、時折白保の年とった漁師が白い浜辺を歩くぐらいの寂しい所であった。潮騒(海鳴り)と山の木の葉を揺るがす風の音、カラスなどの鳥の声や虫の声、夜になると、ふくろうの淋しい鳴き音が闇の中からきこえてくる。そんな場所に製塩工場は建てられた。

0 件のコメント:

コメントを投稿